TAM/SAMという「2つの市場規模」を混同するな
- TAM/SAM/SOMには「投資家向け」と「事業計画向け」の2種類がある
- 理論上の市場規模と現実の事業規模は、まったく別の数字だ
- 混同した瞬間、事業計画は空中分解する
会議室で繰り返される呪文
新規事業の検討が始まると、どの会社でも同じ儀式が始まる。 プレゼン資料の冒頭に巨大な数字が躍り、「市場規模○兆円」。その下にTAM、SAM、SOMの図。担当者は「この市場は魅力的です」と語り、承認を求める。
——その数字、誰のためのものだ。
「外部の市場調査からTAMが〇兆円あると分かりました。ターゲットを絞ったSOMでも〇億円のポテンシャルがあります。だからこの事業計画は確実です」という理屈。
それを聞いた瞬間、ボクは思わず頭を抱える。
投資家に「この市場は大きい」と夢を見せるための数字と、「自分たちが現実に売上を積める」数字は、根本から目的が違うのだ。
この「2つの数字」の混同に何度も立ち会ってきた。何度も、だ。自称「メンター」たちも、この違いにはっきりとした回答を持ち合わせていない。
理論上の「市場規模」
例えば、「男性向けのオンライン会議用BBクリーム(メンズコスメ)」事業で考えてみよう。
TAMは「国内の男性用化粧品市場全体」で約1,500億円。 SAMは、その中で「オンライン会議を日常的に行う20〜40代のビジネスマン」に絞って約300億円。 SOMは、初期ターゲットとなる「IT業界のインサイドセールス担当者など、画面映りが営業成績に直結すると感じている層」で約15億円。
ここでの計算の目的は明快だ。 「ここまでコンプレックスが強いターゲットに極端に絞り込んでも15億円の市場がある。初期参入する意味がある」——その論理の組み立てに使うものであって、精緻な推計ロジックよりも「なるほど、それなら儲かりそうだ」という物語の説得力が問われる世界だ。
もうひとつ、「市場拡張」という見せ方もある。
当初は「大事なオンライン会議の前にだけ塗る」層がターゲットだが、「休日のデートやちょっとした外出時にも、当たり前に肌を整える」文化を作れたらどうなるか。週1回の使用から週5回の日常使いになれば、使用頻度は5倍に跳ね上がり、ターゲットも全ビジネスマンに広がる。「既存の化粧品メーカーからパイを奪うのではなく、男性の新しい身だしなみ文化を作って市場自体を拡張する」。
——投資家や決裁者の目が変わる瞬間だ。これが「投資家・ステークホルダー向けの数字」である。
現実の「事業計画」
問題はここからだ。
この魅力的な数字を握りしめたまま、事業計画のフェーズに突入する担当者があまりに多い。「SOMが15億円あるんだから、初年度1億くらいは余裕でしょ」。その発想が、根本的に間違っている。
事業計画のSOMは、外部の調査データから「割り算」で作るものではない。 検証を経て「この人は確実に買う」と確信できるN=1の具体的な顧客からの「足し算」で積み上がるものだ。
初年度のSOMとは、「IT業界のインサイドセールス全体」といった顔のない集団ではなく、「ボクたちが今、リアルに名前と顔を思い浮かべられ、確実に製品を届けられる〇〇社の人たち」の集合でしかない。
(ボクがメンタリングで「SOMを教えてください」と聞いて、相手がExcelの割り算で出した推計値を読み上げ始めた瞬間、だいたい察する。ああ、まだ誰にもサウンディングに行っていないな、と。)
混同がもたらす平行線
この2つを混同したまま進むと、会議室は壊れる。
「SOMが15億あるなら、1割の1.5億は取れるだろう」と会議室で言う役員。「でも最初のターゲット顧客の検証はまだこれからで……」と口ごもる担当者。
市場規模のポテンシャルの話なのか、来月の売上コミットの話なのか、全員が違う前提で喋っている。平行線。計画はいつまでも宙に浮く。
もっと深刻なのは、担当者自身が混乱するケースだ。 「市場はこんなに大きいのに、なぜ一つも売れないのか」——この問いを立てた時点で、もう沼にハマっている。理論上の市場と現実の売上は別次元の話だ。プールに水がたくさんあることと、自分がそこで泳げることは、まったく別の能力の話だから。
2つの市場規模を使い分けろ
ボクはいつも「市場規模の数字には2つの種類がある」と整理している。
1つ目。「市場の魅力を示す数字」。投資家向け、ステークホルダー向け。TAM/SAM/SOMで「なぜこの市場か」の論理を組み立てる。外部データや推計で構わない。物語のブレなさ、説得力が命だ。
2つ目。「事業の実現性を示す数字」。SOMはN=1の顧客と顧客単価からの足し算で積み上げる。SAMはその顧客ペルソナが確実に存在するセグメント全体、中期で到達できる売上の総量。TAMは、1つ目のSAMが事実上の上限となる。この事業計画の数字は、現地現物の検証によってしか更新されない。現場で足で稼いだデータだけが、ここに入る資格を持つ。
面白いことに、「投資家向け」のSAMが「事業計画向け」のTAM(上限)に化ける。 「投資家向け」のSOMが「事業計画向け」のSAM(当面の目標)に化ける。同じフレームワーク、同じ3文字の略語。なのに中身がまるで別物になる。ここに気づいているかどうかで、会議室の議論の質がまるで変わる。
これら2つの数字は目的が違う。混ぜた瞬間、どちらも死ぬ。
数字に意志を宿せ
「1,500億円」という数字は、ただ外部の調査会社が書いたレポートに存在しているだけだ。
そこに意志はない。熱もない。その無機質な数字にどんな物語を乗せるかが、事業開発者の仕事だ。 投資家に夢や未来を語るときの大きくて丸い数字と、現場で泥臭く検証し、顧客からお金をいただくときの尖った数字。それぞれに、ふさわしい使い方と作法がある。
フレームワークはただの道具だ。 「3つの段を埋めること」が目的になった瞬間、数字は役割を失う。数字が息をするのは、それを使う人間に「確かめたいリアルな問い」があるときだけだ。
見えないリュックに、これら2つの数字を入れておこう。そして使うべき場面で、使うべき数字を出す。 それだけで、事業の議論は驚くほど噛み合うようになる。